私たちの任務かどうか引き受ける態度で「私たちは何者か」が決まる

時折、過去の自分に出会い直すような瞬間がある。先日、2022年に医療ソーシャルワーカーの全国大会シンポジウム「我々は何者なのか? 過去、現在から未来に向けて考える」で私が講演した資料が、ひょんなことから出てきた。

読み返してみると、不思議な感覚になる。「ああ、そうだな」と素直に思う。自分で書いたものだから当然なのだが、同時に、今の実践の中でもなお有効な問いがそこに残っていた。

当時、私は少し挑発的な立場をとっていた。「私たちは何者か」を問うべきなのは、私たち自身ではない。
それを規定するのは、常に“他者”である。

医療ソーシャルワーカーとは何か。どれだけ制度に位置付けられ、診療報酬に明記されたとしても、社会や住民がその存在を認識していなければ、それは「何者でもない」に等しい。

にもかかわらず、私たちはしばしば、自分たちの役割を自分たちで定義しようとする。それはどこか内向きで、自己完結的で、そしてどこか「安全」な営みでもある。

在宅医療・介護連携の現場では、よくこう問われる。

「で、どうすればいいんですか」

入退院時の連絡が来ない。
来ても内容が使えない。
担当者によって質がばらばら。

これは医療ソーシャルワーカーに限った話ではない。
多くの職種が、制度や環境の制約の中で仕事をしている。

「診療報酬で決められているから」
「所属機関の方針だから」
「時間がないから」

確かに、それらは事実である。
しかし同時に、それらは「できない理由」としても機能してしまう。

ここで問われるべきは、能力や制度ではない。
その課題を「自分たちの任務として引き受けるのかどうか」という態度である。

かつて、社会福祉士が診療報酬に明記される以前、医療ソーシャルワーカーは医療機関の中で極めて曖昧な存在だった。

院内の「何でも屋」。
どこにも属さず、しかしどこにでも関わる。

それは裏を返せば、「境界を持たない職種」でもあった。

だからこそ、常に問われてきた。
これは仕事(work)なのか、それとも単なる労働(labor)なのか。

この問いに明確な答えはない。
しかし一つ言えるのは、医療ソーシャルワークとは本来、制度や役割の外側ににじみ出る「社会の困りごと」を扱ってきた実践だったということだ。

「これがなければ医療ソーシャルワーカーではないもの」

「私たちは何者か」を直接問うよりも、
「これがなければ医療ソーシャルワーカーではないものは何か」と考える方が、本質に近づくように思う。

なぜなら、私たちの対象は常に変化してきたからだ。

医療、介護、生活、地域—
その境界は揺れ続けている。

であれば、固定された役割や機能ではなく、どのような課題に向き合い、何を引き受けてきたのかこそが、その職種の輪郭を形作る。

近年、医療ソーシャルワーカーの世界にも、ある種の“短期志向”が広がっているように感じる。

いかに制度に位置付けられるか。
いかに現在の業務の価値を最大化するか。

もちろん、それ自体は重要である。
しかし、それだけでは「今良ければいい」という思考に陥る。

かつて、精神保健福祉士法案をめぐる議論があった。
その本質は、制度の是非ではなく、
「未来に向けて、私たちは何者であるべきか」という問いだったはずだ。

長期的な視点で、自らのあり方を問い続ける。
その営みこそが、職種の価値を形作っていく。

ここで改めて考えたい。

私たちの任務とは、あらかじめ決められているものなのだろうか。

確かに、制度や職務記述は存在する。
しかし現場で起きている問題の多くは、その外側にある。

入退院連携のほころび。
意思決定の宙づり。
地域での孤立。

それらに対して、「それは私たちの任務ではない」と線を引くのか。
それとも、「これは自分たちの任務だ」と引き受けるのか。

その選択の積み重ねが、結果として
「私たちは何者か」は外側から規定されていく。

境界を引くほど、取りこぼしは増える

世界を正確に理解しようとすればするほど、私たちは物事を分解し、区別しようとする。しかし、部分を精緻にすればするほど、全体はその分だけ広がっていく。

つまり、「ここまでが自分たちの仕事だ」と明確にすればするほど、「それ以外」は誰の仕事でもなくなっていく。そしてそこに、社会の困りごとが取り残される。


結局のところ、「私たちは何者か」という問いに、先に答えはない。あるのは、日々の選択だけである。

その課題を引き受けるのか
見送るのか
関わり続けるのか
手放すのか

その一つひとつの態度が積み重なり、後になって「あれが私たちだった」と語られる。

医療も介護も、そして社会そのものも変わり続けている。薬剤師は対人業務へ、医師は社会的処方へと役割を広げている。それはすべて、「社会からの要請」に応じた変化である。

であれば、医療ソーシャルワーカーもまた、あるいは在宅医療・介護連携に関わる私たちもまた、
問うべきは「何者か」ではない。

目の前の課題を、自分たちの任務として引き受けるのかどうか。

その態度こそが、これからの私たちの輪郭を形作っていくのだと思う。

“私たちの任務かどうか引き受ける態度で「私たちは何者か」が決まる” への2件の返信

  1. 師の教え「仕事は引き受けるためにある。」
    死語となることを私が願う言葉「シャドーワーク」

    1. コメントありがとうございます。
      私の師も「仕事は依頼されるもの、自分で選ぶものではない」
      自分の評価は自分より他人の方が正しい。
      仕事は常に「日向」ですものね。

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